2008年08月24日
若者の自立、のチカラになりたい
今日は終日、新居浜デー。スケジュールめいっぱいに、
よしっ、と、気合いを入れてAM8:40、
黒島から大島ゆきのフェリーに乗船する。
地元新居浜市の藤原雅彦市議のご案内で、
石田のりとし農林水産副大臣・衆院議員、
山本ひろし参院議員に、随行させて頂いた。
国会・県会・市会の各議員が一堂にそろって、
というのは、
私たちネットワーク政党・公明党にとっては、
しょっちゅう、ではないが、よくあること、だ。
が、訪れた先では、皆様一様に驚かれ、
逆にこちらが驚かされてしまうのである。
私たちは、
いつも、現場を共に感じたい、と思っている。
その上で、課題解決のために、
法改正・整備が必要なら、それは国、
地元マターなら県、あるいは市、というふうに、
それぞれのレベル対応を、
連携も密に実現していくことが、
私たち公明党の、
生活現場主義という実践ルール、といっていい。
すべての政治家が、
それを当り前のように実践できたとき、
日本の政治は劇的に変わる、と思うし、
いつかそれを競う時代へ、と思う。
さて。
大島への訪問目的は、若者自立塾愛媛の、
第3期塾生メンバーの活動状況の視察、兼、地元対話だったが、
(若者自立塾愛媛⇒ http://www.planet2001.com/jiritsu/ )
まず、港務所で切符を買って驚いた。
大人1人60円。
なんで?
その答えは、藤原市議の説明によると、島民の道路だから。
なんと!
市民からお預かりした税金を、こうした形で使われる、
新居浜市政の懐の深さと市民の理解に、感動した。
いきなり、の、なるほど、だ。
フェリーに乗り込み、ほどなく、大島に接岸。
さらに徒歩5分で、大島公民館に到着する。
ちょうど、
1泊2日の小学生交流キャンプの、クライマックス。
飯ごう炊飯やキャンプファイヤーなど、
参加児童による2日間の思い出発表と、
矢野館長の締めくくりの挨拶、
という場面であった。
そういえば、私にも、あった、あった。
小学生の時、それ、やりましたよ、と心の中で。
初めてふれあう他校のお友達にドキドキ、
夜もなかなか寝つけなくて、結局朝起きるのが辛くって。
最初はよそよそしかった友達と、
だけど解散する時には泣きたくなるような、
そんなひと夏の経験の、2つ3つを、思い出した。
話が、それた。
若者自立塾愛媛の3期塾生メンバー、の話であった。
彼らは、いわゆる、ニート・ひきこもりの若者であり、
3か月の合宿生活を通して、経済的・社会的に自立できるよう、
そのきっかけと自信を提供する場、それが若者自立塾、なのだ。
今回は、キャンプが楽しく、無事成功するように、
2日間、裏方として活動されていたのであった。
場所を移し、私たちは、その仕事をやり終えた、
若者自立塾のメンバーと、しばし懇談を行った。
“1年半ほどひきこもってましたが、合宿生活で、
性格が明るく前向きに変わった気がします。”
“資格を取りたいです。”
“人前で発表できるようになり、自信がつきました。”
がんばれ、みんな、と思う。
人には、その人にしかできないことがある、のだから。
石田・山本両国会議員からも、
ざっくばらんにして渾身の、激励が続いた。
別れ際、がっちり握手を交わしながら、
力強く握り返す1人1人のメンバーに、
私もひとことづつ、
心からのエールを送らせて頂いた。
そして、彼らと、
彼らの後ろに続く若者たちのチカラになりたい、
と思うとき、
9月議会にて登壇させて頂く、私の一般質問の1つは、
若者の自立、で決まった。
全力で取り組むことを、この場でお誓いしたい。
PS
その後、数件にわたる本日の視察については、
後日、1項づつ、綴りたいと思います。
(写真:左から、私、石田副大臣、山本参院議員、藤原新居浜市議。)
2008年08月20日
離島を結ぶ町、上島町を訪ねて
午後、上島町・弓削に到着。“今度ゆっくり行かせてもらいましょーわい”、
と、8/5のブログに綴ったが、
そんなゆるーいお約束を交わした時本さんを訪ねて、
の日帰り旅だったが、
全国でも極めて珍しい、離島を結ぶ町、
という、上島町の視察が主題、でもあった。
おとなりの因島で生まれた私にとって、
弓削は同じくらいに、懐かしさと親近感を感じる、島。
よく松原に泳ぎにいったし、
釣り、といえば、
伝馬船で百貫島にいったことも懐かしい。
周辺の島々の多くの方が、因島の造船関連で働き、
ちょっとしたショッピングは因島で、という時代であった。
だから、幼いころは、弓削や生名が、なぜ愛媛県なのか、
実際は広島県じゃのに、と、不思議に思っていたものだ。
そんなことを回想しながら、
因島の家老渡(かろうと)からのフェリーに、車で乗り込んだ。
面白いなぁ、この船、バックで進行しよる。
と、思う間もなく、弓削へ到着。
時本さんは、待ってくれていた。
“ほまれクン、お久しぶり!”
論語ではないが、
父の友あり、というのは、また楽しからずや、だ。
最初に、時本さんのご自宅を訪ね、
昨年お亡くなりになったという奥さまのご仏前に、
お線香を上げ、追善の祈りを捧げさせて頂いた。
そして、時本さんの。
この間のご苦労をつぶさに伺いながら、
心から労う思いで、お話をさせて頂いたのだが、
同時に、政治が解決しなければならない課題を、
自身の宿題として与えて頂いた気が、した。
束の間のお邪魔の後、早速、弓削を1周することに。
まずは、上村町長表敬で庁舎を訪ねたが、
あいにく東京へご出張とのこと。
では、と車を走らせる。
思いのほか、道がよい。護岸も、よく整備されている。
するすると、弓削大橋をわたる。
全長980mだから、あっという間、で、ちなみに無料。
佐島では、同島と生名島を結ぶ生活の足、生名橋を、
2010年完成を目標に、着々と工事が進められていた。
あとは、生名島と岩城島を結ぶ岩城橋が完成すれば、
4島をつなぐ上島架橋事業は完成、
なのだが、
現時点では、岩城橋の着工年は未定である。
引き返しながら、今度は弓削の支持者宅を、訪問。
あるお宅で、奇しくも、その、岩城橋の話となった。
同じ町なのに、車で簡単に行くことができず大変不便、
早く岩城橋を完成させてほしい、とのこと。
ちなみに、彼らが車で行く岩城島へのルートは。
弓削からまず、県境をまたいで因島に船で渡り、
そこから生口橋をわたり、
今度は生口島から船で渡って、県境をまたぎ直し、
ようやく岩城島に到着、という広島県経由ルート、なのだ。
料金も1回3000円強、必要となる。
同じ町内で?である。
周辺の島々を結んでくれていた汽船会社が、
本年6月に運航が休止となり、こういう状況になった。
その他の要望もあるが、一番に望むことはそれじゃけん、
ぜひ県で何とかしてほしい、ということであった。
愕然とした。
実体経済の、囚人のジレンマ、を思った。
さあ、どうする。
約4時間の滞在で、2つの島をぐるり巡る中で。
受け止めた課題を、離島全体に、僻地全域に敷衍したとき、
それはあまりにも難題、といわざるを得ない。
往路のフェリーでは、あれほど盛り上がった気持ちが、
復路では、とてもシビアな心境に変わっていた。
けれど。
私が乗るフェリーを、ずっと見えなくなるまで、
手を振って見送ってくれる時本さんを見ていると、
できるかできんかじゃない、
やるかやらんかじゃ、
とまた、強い気持ちが込み上げてくるのであった。
上島町視察を同行頂いた時本さんに、感謝の気持ちを込め、
私もまた、見えなくなるまで、手を振り続けた。
(写真中央:手を振り続けてくださる時本さん。)
2008年08月15日
まず隗より、そして、いつも始めよ
63回目の、終戦記念日。午前、
愛媛県県民文化会館にて開催された
愛媛県戦没者追悼式、に出席した。
白柱を見上げながら。
犠牲となられた戦没者の方々に、
謹んで哀悼の意を表するとともに、
不戦と平和への誓いを、
あらためて深く、心に刻んだ。
かの大戦による犠牲者は、全国では約310万人、
アジア諸国においては約2,000万人ともいわれる。
あれから63年が経ち、今、
不戦は誓いのまま、としても、平和はどうか?
親が子を、子が親を、あるいは無差別にあやめ、
人を人と思わない、悲しい事件の絶えない今を、
戦没者の方々は、なんと見るだろう。
なんと嘆かれ、悲しまれるだろう。
年に1度巡りくるこの日は。
あの日に立ち返り、
私たちの父母や祖父母が、どれほど平和を希求したか、
その思いを継ぐ者として、日本を継いでいく者として、
真剣に考え、行動する日、であらねばならない、のだ。
献花しながら、
まず隗より、そして、いつも始めよ、と心に誓った。
そして、追悼式終了後、さっそく。
公明党・山本ひろし参院議員、笹岡博之県代表とともに、
伊予鉄髙島屋前に移動し、終戦記念街頭遊説を行った。
私も、式典での誓いそのままに、マイクを握らせて頂いた。
大勢の方が、お手を振ってくださり、
あるいは猛暑の中、立ち止まり、見守ってくださり、
心より感謝を申し上げたい。
厳粛な1日を終えて。
お盆のこの日を過ぎると、そろそろ、夏も終わる。
そう思うと、
ジリジリと照りつける太陽さえ愛おしく、
噴き出す汗さえ懐かしく、思えてくるのであった。
(写真左から、福岡松山市議・青野伊予市議・山本参院議員・笹岡県代表・私。)
2008年08月12日
ウサギとカメ、と本間さん
懐かしいお二人、遠方より来たる。本間さんご夫婦、である。
10数年ぶりの再会は、
昼下がりの15:30、JR松山駅にて。
“おぅ、元気そうやん!(ニコッ)”、と、本間さん。
笑うとなくなるくらい目が細くなるのは、昔のまんま。
“めっちゃ、立派になられはってぇ!”
と、持ち上げ上手な奥様も、当時のまんま。
“いやぁ、ぜーんぜん、変わってへんですね~!
お二人とも、めちゃ若っ!”
と、私も、つい、そのまんま、反応してしまった。
だって、本当なんですから。
そんなお二人を。
どうぞどうぞ、と私の車に乗せて、早速、市内をプチ観光。
そして、私が住んでいるマンションへご案内した。
“こんにちわぁ!”、と、お出迎えする家内と子供たち。
ただ、4歳の娘だけ、完全に、よそよそしい。
へぇ、人見知りするんだ、
と、わが娘の性格を、今ごろ認識する私も私、ではある。
ひとしきり、昔話に花が咲き。
洗濯ものをたたみながら、天然ボケの会話をする家内は、
本間さんには結構ウケたみたいで、
“奥さん、オモロイなぁ~。”
なぁ~、の部分に、妙に実感がこもっているのであった。
“いや、オマエ、えー嫁さんもろたわ!”
いえいえ、えー嫁さんは、
お客様の前では、下着とか、たたみませんから。
それから、場所を移動し、
食事をしながらの、第2ラウンド。
思い出のジグソーパズルともいうべき、
お互い忘れかけていたピースをつなげながら、
現在のピースを継ぎ足しながら、そして、
それぞれの未来のイメージを膨らませていった。
と、美しそうな話だが、
終始、ベタな会話ではあった。
あの頃の私は、極貧。
食生活は、ほぼ毎日、納豆と花かつお、だったが、
2日と空けず、3軒隣りの本間さん宅に行くたび、
いつも温かい手料理をごちそうになった。
食の恩とは、深いのである。
また、本間さんとコンビで、物理的にも精神的にも、
プライベートの殆どを費やした、地域の青年部活動では。
そのネットワークが広がれば広がるほど、深まれば深まるほど、
複雑多岐にわたり生じる私の悩みを、
いつもそのまま打ち明けることができ、
その都度、受け止めてくれたのが、本間さんご夫婦であった。
“エーねん、エーねん、木村。
それより、おまえ、知ってるか、ウサギとカメの話?”
なんで、ここで、ウサギとカメ?なのか、
そういう煙の巻き方、というか、
奇想天外の、心理モードの切替力は、彼の18番であった。
“ウサギは何故、あの競争、負けたか。
それは、カメを見ながら走ったからやで。
カメは何故、あの競争、勝ったか。
簡単やん、ゴールだけ見すえて、歩き続けたからや。
なぁ、木村。
目の前のウサギは関係あらへんねん、無視しとったらえーねん、
オマエはオマエのゴールだけ見とったら、えーねん。
大事なんは、そこやで。
今、しんどーても、そこ、忘れんかったら、人生、勝てんねん。”
当時、私は24歳。
本間さんは30歳だったか。
実のところ、
自分のゴールがどの方向にあるのかさえ、よくわからなかった。
けれど、そんなウサギとカメの話や、
勝手に私が名づけているだけだが、
バットの素振り理論や、
タイヤの幅理論、また、
ニワトリが先か卵が先か、よりも、使命が先やで理論、
細工は隆々、あとは仕上げをごろうじろう理論、
などなど、
枚挙にいとまもないくらいの本間ワールドに、私は、
決定的に、インスパイアされたのである。
大阪にいたのは、たった4年弱だったけれど。
その、本間さんご夫婦との4年がなければ、
私は今も、ゴールを探していたような気がする。
おかげさまで、本間さんの3軒隣りの大阪で、
私は私の、進むべきゴールを確信させて頂いた。
この先、所がどこであれ、仕事が何であれ、
環境がどうであれ、こういうふうに生きていこう、
と、決意したその瞬間を、今も忘れない。
その意味で、
本間さんご夫婦は、私の恩人、なのである。
約6時間の、束の間の再会ではあったが、
そのことを確認するには十分、だったろう。
21:30、JR松山駅にてお見送り。
その時も、
笑顔の本間さんの目は、やっぱり細かった。
お二人には、いつまでも、これからも。
宜しくお願いします、
と、心から思うのであった。
2008年08月10日
しまなみ遊説、の1日
議員に、土日なし。朝、手帳をチェックして、あらためて気づく。
容赦もなく照りつける、灼熱の日曜日。
本日は、
大島・伯方島・大三島、の3島をスラロームする、
しまなみ遊説、の日。
と、何だか胸が高まるのは、私が、伯方島で育ったから。
で、そうした、ちょっぴりセンチな感情は胸にしまって、
AM10:00、今治市役所に到着。
おはようございます!
公明党・今治市議4名の先輩方と合流し、いざ、出発。
最初は、大島。
吉海町と宮窪町でマイクを握り、
その間、支持者宅のご訪問、漁協関係者のヒヤリング、
陳情箇所の視察など、猛スピードで島を1周。
あっちゃん、久保くん、青菜くん、元気やろか?
と、同級生の顔を思い出しながら、2時間弱の滞在。
続いて、伯方島。
マリンオアシスはかたで、伯方の塩ラーメンを頂いた後、
有津と木浦で、マイクを握った。
照れくさいやら、懐かしいやら、で、ちょうどお昼時。
幸か不幸か、友達に出会うこともなく。
その後、支持者宅を数軒ご挨拶にお伺いし、
大三島へと向かった。
宮浦で2か所、マイクを握った後、
支持者宅へのご挨拶を終え、
どうしても訪れたかった場所、がある。
高校時代の下宿の先輩、Aさん宅、だ。
昔の記憶を手繰りながら、
たしか、ここを曲がったあたり・・・。
あった!あった!
しかも、全面リニューアルしていて、
とってもオシャレなお店に大変身、ではないか。
やるではないか、Aさん。
と、お店を覗くと、いた。
まぎれもなく、Aさんだ。
身長も、変わらない。
体型も、変わらない。
ちょっとシニカルな笑顔も、
全然昔と、変わっていない。
“Aさん、お久しぶりです~!”
“お~、久しぶり!俺さぁ、去年の選挙の時、・・・”
と、いきなり、積もる話全開モードのAさん。
あいかわらずだ、な。
こちらとしては、突然の飛び込み訪問だし、
しかもお客様もいらっしゃったため、
極力、短時間で辞そうとしたのだが、
若干、旧交が温まってしまい、恐縮しきりだった。
その、Aさん。
私の1つ先輩で、当時の下宿先が同じ、という間柄であった。
彼は今治北、私は今治西、と、通う高校こそ違ったものの、
学校以外の生活時間のほうが、はるかに長いわけで、
いつも、どちらからともなく部屋を行き来しては、
たわいもないことで盛り上がる毎日だった。
ぬかるみの世界、オールナイトニッポン、歌うヘッドライト、
ガスコンロ、袋入りラーメン、コーヒーにブライト、
オーブントースター、シグマベスト、出る単、トランプ、
極真空手、1・2の三四郎、銭湯、それから・・・。
今の高校生のように、ケータイもメールもなく、テレビもなく、
振り返ると、アナログでモノクロな思い出ばかり、だ。
それがよかったし、それでよかった。
“今度また、ゆっくり来ますね!”
そう言って、
さすがに、お暇をさせて頂いのだが、
帰り道、あの頃とちっとも変らないAさんに、
しばらく、ニヤニヤ笑いが止まらなかった。
灼熱の太陽照りつける、
しまなみ遊説の1日は、
なぞるように、
自身のルーツを再確認した1日、であった。
振り返ったどの瞬間も、感謝でいっぱい、である。
(写真左から、今治市・渡部議員、私、同・石井議員、同・越智議員。撮影は、同・谷口議員。)
2008年08月09日
蛍雪、という母校のDNA
党務を終えて、17:00。今治市内で開催された、蛍雪会総会に駆けつけた。
いささかローカルな話になるが、蛍雪会とは、
わが母校・今治西高校のOB会の名称、だ。
私は、今回が初参加とあって、
内心恐る恐る、会場受付へと向かった。
“お世話になります。33期の木村です。”
受付に思い当たる顔は、ない。
ならば、と、受付名簿を目で追うが、同期はいない。
緊張が、走る。
案の定、会場へ入ると、場内は、大先輩ばかりであった。
その上、気まずい事に、私は来賓席へ誘導されてしまった。
身が縮む思いとは、このことだ。
そんなわけで総会は、
個人的には極めて恐縮、の居心地に始まったのだが、
引き続いて懇親会に入ると、一転。
各テーブルを大いに回らせて頂き、
大先輩の方々との会話が、弾む、弾む。
その、同窓の絆に熱いものを感じながら、
また、敬意と感謝に心も満たされながら、
何ともいえない、
温かな居心地の余韻の内に、終了した。
すべからく、感謝すべきは母校なり、だ。
さて、話は変わるが、
現在、母校は1学年8クラス、在校生徒総数959名、とのこと。
私たちのときの生徒数は、1,350名だったから、ざっと3割減。
むむむ、
と、心に戸惑いと引っ掛かりを覚えたのは、
メディアが伝える少子化と、
母校を通じ肌身で感じる少子化のギャップ、だった。
ましてや。
来る年も来る年も定数に満たず、
母校の廃校を余儀なくされる方々のお気持ちは如何ばかりだろう、
と、現在、県が進める県立学校再編計画に思いを馳せ、
7月初旬の常任委員会での、自身の発言を思い返した。
行政の課題解決は、
常に、当事者から出発しなければならない、
という当たり前を、
母校の現状に鑑み、あらためて意を強くするのであった。
最後に1つ、これまたローカルだが、
OB会の名称である、蛍雪、の由来について。
それは、母校の校章にも校歌にも顕わされる建学精神であり、
107年にわたり伝統脈打つDNAであり、私たち同窓の絆そのもの、だ。
それは、皆様ご承知の、中国の故事に基づいている。
晋の車胤が、貧しくて灯油が買えず、螢を集めてその光で書を読み、
孫康が、雪を積んだその明かりで学問に励んだ、というあの有名な故事、
または、卒業式に歌われる、
♪ほーたーるの・ひーかーり・まーどーのー・ゆーーき、である。
苦労して学問に励んだその2人は、
後に、官僚として大成するのだが、
母校に学ぶ私たちも、将来どの道をゆくにせよ、
この伝統精神を貫いていくならば、きっと行く手は照らされる、
そう確信して、倦まず弛まず精進せよ、
そんなメッセージが、蛍雪の2文字に込められている、のだ。
そのOBの1人としては、未だ、甚だ未熟ではある。
であればこそ、今一度、蛍雪、の精神に立ち返り、
大先輩に恥じないよう、公務を全力で、と心に誓った。
末尾ながら、準備と運営のお世話を頂いた皆様、
素晴らしいひと時を、誠にありがとうございました。
2008年08月08日
北京オリンピック、開幕
末広がりの、8並び。いよいよ本日、北京オリンピックが、
正式には、
第29回夏季五輪・北京大会が、開幕した。
ここに至るまで、
さまざまな物議を醸してきただけに、
予定通り開幕を迎えられたことを、
心から安堵するとともに、
開催期間の無事盛会を祈る思いでいっぱい、だ。
その、開会式。
テレビの前で、釘づけになった。
考えてみると、こうして、ゆっくり開会式を見るのは、
社会人になってからは、初めて、だ。
「鳥の巣」でおなじみの、国家体育場がメインスタジアム。
そこをめざして、郊外から、足跡をかたどった仕掛け花火が上がる。
1歩、2歩、3歩・・・。
足跡は、北京の夜空をまたぎながら、「鳥の巣」に近づいていく。
到着すると、巻物をかたどった舞台が現れた。
歓迎儀式が、始まった。
その最初のメッセージは、
“朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや”。
おー。
孔子の論語、ではないか。
高校時代、漢文で習ったぞ。
この、かなりイケてる、演出センス。
プロデューサーは、誰ぞ?
と思っていたら、
すかさず、アナウンサーから解説があった。
“今回の演出は、中国映画界を代表する、あの、
張芸謀(チャン・イーモウ)監督が担当されました。”
なるほどー。
映画「初恋のきた道」の、大ファンである私としては、
どーりで、なのであった。
巻物はクルクルとほどけ、巨大な舞台となり、
文字を、つまり文明を得て以来の、
中国5000年の歴史絵巻が次々に展開されていった。
1つ1つ綴るとキリもないほどに、
中国の威信をかけた、一世一代のショーを、堪能した。
参加選手は、204カ国・地域から11,193人。
参列の国家元首や首脳は、80カ国以上から。
いずれも、五輪史上最多、だそうだ。
加えて、91,000人!
の、大観衆で埋め尽くされた、この「鳥の巣」から、
超大国・中国が、今、
大きく羽ばたかんとする心象を持った。
眠れる獅子、ついに、立てり。
世界の中国に対する認識は、
今日を境に、一変するのかもしれない。
そんな中、わが日本選手団は。
旗手を務める、卓球女子の福原愛ちゃんを先頭に、
23番目に登場、だ。
すばらしい笑顔、笑顔、笑顔。
そして、明日からは、真剣勝負。
県勢の、7人の侍、もいた。
悔いの残らない大活躍を期待したい、と思う。
今回の、北京五輪のスローガンは、
「一つの世界 一つの夢」。
テレビにかじりつきながら、
どんなに微力であったとしても。
スポーツを超えて、それを国際社会に実現していく、
そんな時代を創り、拓いていかねば、と、決意した。
(写真は、県庁に掲げられた県勢選手の応援懸垂幕。)
2008年08月07日
やるべきこと、やっているか、やれているか
終日、県民相談対応。積ん読、の中から、
日経ビジネス(2008.7.28)を、読んだ。
“消費税の年金財源化に落とし穴”、という、
東洋大学・髙橋洋一教授の、記事である。
私が、髙橋教授を初めて認知したのは、
著作の、「さらば財務省!」によってであった。
なんとユニークな官僚なのだろう、と思ったし、
きわめてロジカルで、腑に落ちる論説の人、と思った。
そのベストセラー上梓後、一躍、時の人となり、
今では、お茶の間で拝見することも多くなった。
ので、世間の認知の仕方は、きっと、
教授、もしくは、コメンテーター、ということなのだろう、
が、私の脳裏では、やっぱり第一印象が支配しており、
私にとっては、だが、今回の記事も、腑に落ちた。
地ならしというか、外堀を埋めるかのように、
じわじわっと巻き起こってきた、消費税増税の議論に対して。
それはそれとして当然ながら、可だが、
それと年金を結びつけるのは、不可だ、と。
つまり、髙橋教授の指摘は、
年金財源としての消費税増税は筋が違う、である。
なぜか。
地方分権に逆行するから、だ。
その仮設立て、に脱帽するし、
腑に落ちるというのは、その、課題の斬り方、である。
中央集権か、地方分権か、
ここが、最初のイシュー。
これについては、
国の運営の方向性に関する結論は、既に出ている。
いうまでもなく、地方分権であり、
この間、法整備も着々と進めてきたし、
先日も綴った通り、政府諮問機関のビジョン懇でも、
2018年に道州制を導入すべく取り組みを加速している。
が、だ。
霞が関の本音は、もちろん、NO、だ。
当事者として何が起きるかを考えれば、容易に想像が、つく。
押し寄せる地方分権の流れには逆らわず、しかも骨を抜き、
結果的に、ちょっとだけ地方分権、で、シャンシャン、
というのが、
権力を手放したくない官僚たちが考えるストーリー、
と、よくいわれるが、その通りであろう。
記事に話を戻すと、髙橋教授の説は、こうだ。
国と地方の役割を明確にした上で、
地方分権が進展・完了したとしても、
年金は、国が運営すべき制度である、
と、ここが、2つめのイシュー。
一方、消費税は、所得税や法人税などの国税の内、
収入安定性の点からも、地域偏在性が少ない点からも、
地方への税源移譲が最も適している、
と、ここが、3つめのイシュー。
イシューをつなぐと、
人材・権限・財源、を地方に移譲する、
地方分権は、喫緊の、実現課題である。
その移譲財源のうち、
消費税は地方に移譲すべき税源であり、
地方分権後も国の運営で行うべき年金の財源は、
国税・保険料という枠組みの中で議論すべきだ、
となる。
賛成、である。
年金ばかりではない、社会保障費の増大もまた、
消費税増税の論拠として高まりつつあるが、
その前に国は、やるべきことがある、のだ。
それについては幾度も綴ってきた通り、
なので触れないが、
年明けから今日まで、
2,000名を超える方々との対話で、
私が感じた、叫びにも似た、庶民の怒り、を、
どうすれば、安心と信頼に変えられるのか、
今、国が最も注力すべきは、その1点であり、
おのずと、消費税増税とは別の議論、となろう。
国は、やるべきことを、やっているのか。
私も、やるべきことを、やれているのか。
自他ともに、常に、問いながら。
記事に触れ、
政治の落とし穴に陥らないよう、研鑽を怠るまい、と思う。
2008年08月06日
今治で、無言に教えられた、公僕精神
午前、部局打ち合わせ。午後、今治市にて視察・企業訪問等。
終日政務の日は、詳細は綴りにくく、
そういうときは読書ネタを綴るようにしているのだが。
あいにく最近は、読書もままならぬ日々が続き、
イカンイカンと思いながら、積ん読、になっている。
加えて、夏バテか年波か、
なんとなく身体が、だるく感じる。
が、そんな自分に、喝、を入れながら、
フル回転の今日1日の中の特筆は。
今治市職員の皆様との現場作業の中で、
その、素晴らしい公僕精神、に心から感動したこと、だった。
どの自治体も財政難であり、
昔は当たり前にできていたことが、今は・・・、という場面は多い。
要するに、お金がないからできない、という現実。
そういった現実があることは事実、だ。
民間ならもっとシビアだろう。
しかし、行政はパブリックをマターとする仕事であり、
民間のできない領域にこそ、その本来任務がある。
そこで、お金がないからできません、
という現実に直面したとき、
安易に思考停止に陥ってしまうのか、それとも、
何とかブレイクスルーしようと粘り強く試みるのか、
そこを分かつものこそ、
真の、公僕精神であろう、と思う。
今日の皆様は、いつも私が実践しようと心掛けてることを、
まさに当たり前のように、自然体で、実践されておられた。
それは、あるもの探し、の実践。
お金はない、
けど、時間は創れる、つまり、ある。
動かせる体も、ある。
1人で100kgの重荷は持てないけれど、
100人寄れば、ラクラク持つことができる。
ならば、100人の賛同を得るために、
語ることが、できる。
前例がないからダメといわれた、なら、
歴史を遡り、世界に目を転じてでも、
前例を探すことができるし、
それをすると悪しき前例になる、なら、
いい前例にできないか、
と知恵を働かせることができる。
そう。
私たちにある、最大の資産は、知恵、なのだ。
それは、お金を、超えて。
私たち1人1人の中に無限に埋蔵され、
絶えず開発可能で、決して枯渇しない。
直面する現実が困難であればあるほど、
その、知恵、をどう引き出し、結集し、活用するか。
その最大のカギは、志、
の1文字であろう。
今治市の職員の皆様のふるまいに瞠目しながら、
その、公僕精神の崇高さに感動しながら、
自分は、何のために、何を、どのように、志すのか。
あらためて自身に問うた、ひと時であった。
その、無言のご教授に、心より感謝申し上げたい。
(写真は、大三島から生口島を臨む、夏の瀬戸内海。)
2008年08月05日
弓削からの、1本の電話
午前、県民相談。午後、企業訪問。
今日は、
夜かかってきた、1本の電話の、話。
“ほまれクン、元気にしよる~?”
声の主は、
上島町弓削の時本さん、であった。
“うわっ、お久しぶりです~!”
10年ぶりか、
いや、思い出せない、ほどであった。
私にとって懐かしい時本さん、というのは。
亡き父の、当時の会社の同僚、である。
当時の2人の年頃でいうと、
ツレ、であり、ダチ、であった。
ちょうど高度成長期にあたる、時代。
私が生まれた因島は、日立造船が全盛を迎え、
関連産業も活況を呈していた。
人口は、5万人を超えて、
因島史上、おそらく最盛期であったその時期、
今思えば、
家族連れの会社行事が、何と多かったことか。
花見や、ボーリング大会や、
秋の運動会や、お祭りや。
本当にあちこちよく連れていかれたし、
家族ぐるみでのわきあいあいは、楽しかった。
いろんなことができて、大人っていいなぁ、
ボクも早く大人になりたい、ナンテ思ったものだ。
その頃、どこにいっても、
私を連れて遊んでくれたのが、時本さん、だった。
小学校の低学年の、ある時、
“ほまれクン、肩車しちゃるけん、
ほれ、おじちゃんの頭を跨いでみ。”
と、言われるまま、担がれると、
びっくりするほどの高さから、風景が、見えた。
一瞬、人だかりの周囲の視線が、集まった。
すっげぇ、というのと、
怖―い、というのと、
それ以上に、恥ずかしーい、
と思ったことを、今でも覚えている。
以来、父が亡くなるまで、そして亡くなった後も。
私が、中学・高校・大学時代、社会人となってからも、
ことあるたびに、駆けつけてお世話をしてくれた、恩人、なのだ。
その時本さんから、私に電話があった理由は。
“実は今日、参議院議員の山本ひろしさんにお会いしたんよ。
山本さん、えらいねぇ、わざわざ、弓削にまで来てくれて、
おじさんみたいなもんにも、気さくに話をしてくれてねぇ、
ほんで、一応、ほまれクンも公明党じゃけん、
知っとるかなぁ?と思おて聞いてみたら、
よぉく知ってますよ、言うけぇ、びっくりするやら、感動するやら、
で、もう思わず、ほまれクンの声が聞きとうなってねぇ。”
と、いうことだったのである。
ありがとう、時本さん。
ちょうど、その日の山本ひろし参院議員のブログに、
弓削での集会の様子が、写真とともにアップされていた。
いた。
時本さん、だ。
その表情は、昔さながらの快活な笑顔だが、
体全体には、幾分の歳月を、感じさせられた。
“おじちゃん、私も、今度ゆっくり、
弓削に行かせてもらいましょうわい。
暑い日が続くけど、それまで、お元気で!”
時本さんのように。
広い広い、この愛媛で。
あちこちにいらっしゃる、私がお世話になった大切な方々を、
命ある限り忘れまい、絶対に忘れまい。
電話を終えて、しみじみと、あらためて決意するのであった。
(写真:右から、若き日の時本さん、と私。)

